第2部 養鶏の発達そして近代へ~江戸期の「鶏」~
家鶏の品種
家鶏を分類すると3つに分けられます。
1,レグホーン種などの地中海品種や日本地鶏などの軽快型(採卵種)
2,中国のコーチン種系の重厚型
3,シャモやマレー種のような直立型
江戸初期には「大唐丸」「チャボ」「烏骨鶏」が中国大陸から渡ってきて在来種と混じり合い活気づいてきました。 闘鶏が庶民の間でも盛んになったのもこの頃です。
そして、闘鶏の普及に火を付けたのが南方のシャムから渡ってきた軍鶏(シャモ)で、闘鶏の花形となりました。以来伝統的な日本鶏を衰退させる原因にもなったのです。
その他海外からはポーランド種、黒色ミノルカ、七面鳥、アヒル(北京ダックなど)などが入ってきて在来種に大きな打撃を与えました。
養鶏業者の誕生
古くは三代将軍家光の時代、副将軍・水戸光圀などが養鶏の普及に努力したらしいのですが、徳川綱吉(生類憐れみの令)の次の将軍、八代将軍吉宗の時代になって養鶏業者が誕生したと言われています。 貧しい下級武士が家計の足しにと小規模な採卵養鶏から始まりました。
それは後代まで続き、明治維新によって録を失った武士たちに引き継がれました。
江戸時代の養鶏地帯
江戸の隣接地、利根川沿岸が川の海運を利用して養鶏農家が拡大しました。
維新後は交通運輸の発達で埼玉、千葉、茨城、福島など東京近県でも始まり、なかでも茨城は光圀以来の伝統で戸数も多くあったそうです。
東北では仙台の伊達政宗が金色ポーランドという種を幕府から下付されたこともあって藩として力を入れ、涌谷(古川、石巻両市の間は鶏卵の集散地でした。
東海では名古屋を中心として尾張藩士の中に取り組む者が出てきました。安政年間には二人の藩士が500羽以上飼育していたという記録があります。このふたりが「サムライ養鶏」のはしりと言われています。彼らが飼っていたのは名古屋コーチンの系統の鶏でした。
その他の地域では出雲地方(島根県)ここでは出雲コーチン、出雲エーコクが知られています。その鶏卵は大量に大阪に出荷されました。また九州地方では筑前(福岡県)を中心として「筑前卵」として大阪に運ばれました。
食としての鶏肉
江戸時代はまだ鶏を食用とすることは一般的とは言えませんでした。江戸の料理書などでも野鳥が主となっています。雉(きじ)、ウズラ、鴨、雁、鴫(しぎ)、雀、ツグミ、ヒヨドリ、ヒバリなどでトリと言えば雉(きじ)、コトリと言えばツグミを指したと言われています。
江戸期は明治期から始まる、鶏肉文化の準備段階といっていいでしょう。肉食文化の普及、生産の体制、流通の整備などによって実現する新しい食文化が長い時間をかけて用意された、そんな時代でありました。