焼き鳥の歴史 第1部

第1部 ニワトリの誕生と養鶏のはじまり

 

ニワトリ(家鶏)はいつ生まれたか?

人とニワトリの関係の始まりは、東南アジア地域に棲息していたキジ科の野鶏が、いつの頃からか人に飼育されるようになったと言われています。そして野鶏のいくつかの種の中でも「赤色野鶏」という種が一番有力とされています。

 

日本伝来は?

その家鶏が日本に伝来したのは農耕が始まった弥生時代(紀元前2世紀)か、それ以前とも言われ、明確ではありません。また、到来のルートも諸説あります。それは日本人はどこから来たか?という謎に符号します。そして日本人のルーツと考えられている中のひとつ、東南アジア、中国、朝鮮半島というルートが通説になっているようです。

 

歴史に登場した最初のニワトリ!

文献上では、「古事記」や「日本書紀」に出てくる有名な「天岩戸伝説」です。スサノオノミコトを天岩戸からおびき出すことに使われた「常世長鳴鶏(とこよながなきどり)」です。ここでは夜明けを告げ、光の到来を告げる神聖な動物として登場したわけです。  農耕が始まっても、一方で狩猟は行われています。それは仁徳天皇の時代より記録として残り、鳥獣が狩られ、また「薬猟」と称して食用にするための狩猟がなされています。また、「禁猟」も幾度も達せられていることからも狩猟の盛んだったことが伺えます。  奈良時代には初歩的な保存食として「干しとり」のことが文献に見られます。しかし、平安時代に入ると中国から渡ってきた儒教、仏教などの影響から「殺生を禁ずる」官令が次々に発布されました。  特に牛馬を食べることは禁忌とされました。おそらくは農耕使役の中心的家畜としての牛馬の存在を軽視することができなかったのでしょう。そのため、キジや小鳥とともに家鶏は例外として食べてもよいことになったようです。

 

養鶏の起源

養鶏の歴史はよくわかっていないというのが本当のようです。文献的には奈良時代に九州の筑後守が農民に猪と鶏の飼育を奨励しているという記述が『續日本記』にあるようです。さらに平安末期には30羽から50羽という数で飼育され、さらに鶏卵を販売する店もできたという記述(『大日本農功伝』)もあるようです。

 

『にわとり』の語源について

家畜としての鶏、家鶏を『にわとり』と呼ぶようになりました。
この語源は二説あります。一つは「庭つ鳥」あるいは「庭つ鳥鶏」から「にわとり」。もうひとつは「丹羽鶏(にわとり)」。これは当時の地鶏の多くが赤色(正確に朱あるいは茶褐色に近い)であったためでしょう。「丹」は赤・赤色という意味です。つまり赤い羽根をもった鶏ということですね。そこから「にわとり」と呼ばれるようになったということです。

さらには関西方面では鶏のことを「かしわ」といいます。これも色から柏の葉を連想させたという説と、鶏の羽ばたきが「かしわ手を打つ」姿と似てるという説。もうひとつ朝廷の中に「膳部(かしわべ)」という料理方の部署から由来するという説もあるそうです。

 

家鶏と闘鶏

家鶏の仕事(?)として「時を告げる」役目がありました。一番鶏は午前4時頃、二番鶏は午前5時頃、三番鶏は午前6時頃と言われ、それぞれの鶏に合わせて、起床し、仕事を始めたものです。  一方闘鶏も日本には平安時代から中国渡来しています。闘鶏は「鶏合わせ」と言われ俳句では春の季語となっています。これよりしばらくは鶏の記事はほとんど闘鶏の記事となっているようです。宮中から庶民までその競技は盛んに行われました。

鶏はもともとキジの血筋をひき、テリトリー(縄張り)を持ち、そのために喧嘩を辞さない性質があります。また地鶏は一婦一夫制が多く、これもキジの血筋といえるでしょう。このような性質が闘鶏を生んだといえましょう。

 

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